イベント下見情報 No.276


イベント下見情報・リスクマネージメント
 No.276
  2016,7,11/13 百里ヶ岳の準備に行きました(南谷コース)


 百里ヶ岳南谷のコースは、当倶楽部では初めての挑戦です。会員さんのご希望コースです。(ご当人は体調がすぐれないので欠席ということで残念ですが、回復され皆様と談笑できる日を楽しみに、ご参加をお待ちしています。)

 登山口までは、少し林道歩きが続きますが、川沿いの涼しいコースになるかと思います。また、百里ヶ岳は、ブナ原生林が素晴らしい山です。たっぷり楽しみたく思います。また、久しぶりにツチアケビのお花を見つけました。

 「盗掘などにより、高島市の山では、見ることができないね。」と、最近話題になっていただけに、「元気でいてね・・」と願いつつ、当日が楽しみです。倒木の除去・道標の赤テープの補強など里山整備もしました。みなさまのご参加をお待ちしています。



ツチアケビの花





開催日  7月 16日(土)
                
 お花めぐり百里ヶ岳トレッキング(南谷コース)
新コース


コース
 JR安曇川駅8:00=木地山:中小屋―南谷登山口―南谷―百里ヶ岳―木地山峠―北谷―木地山:中小屋=道の駅藤樹の里あどがわ=JR安曇川駅

参加費内容 : 昼食・環境整備費・入林料・バス/ガソリン代など交通費・保険など

      ★ 健脚向きコースです。


(歴史メモ)
木地山峠(福井県小浜市上根来・滋賀県高島市朽木麻生)

 福井県小浜市上根来と滋賀県高島市朽木麻生(木地山)を結んだ百里ヶ岳(931m)北稜に位置した標高660mの峠です。小浜市上根来から近江を超える峠としては、この峠より針畑越(根来坂)が有名で、江戸時代、若狭の鯖を京都へ運ぶ商人たちで賑わい、鯖街道と呼ばれていました。
 木地山峠は、近江側の峠下に轆轤村があって、膳・盆・銚子・木鉢などを生産したので,この辺りの木地師や近江商人が往来したのでしょう。
 木地山は、旧村名を轆轤といい、中世以来明治初期に至るまで長く木地業が盛んだった所です。全国の木地師支配のため実施した氏子狩(うじこかり)で、常に、その奉加帳の筆頭に巡回した所です。
 現在は、この峠は廃道となって久しく、百里ヶ岳への登山者が通過するだけの山道になりなした。
 木地山峠という名は、各地に見られます。例えば、加越国境の勝山市北谷町にも「木地山峠」があります。中国山脈の脊巓を挟んで岡山・鳥取・島根の県境にもあります。木地師達は、需要に応じて原木を求め、各地を歩くうち中国地方にまで進出したと考えられてます。椀や盆づくりの原料になる材木が豊富にあれば、腰を据えて定住する場合もあったでしょうが、多くは10年ないし15年で原木を使い果たすと新天地を求めて移動しました。この移動には、木地師の先遣隊とも言える「先山」が調査方々捜しまわり、適地が見つかると家族や仲間を呼び移動しました。
 近江の{高島市朽木(旧朽木村)には、昔から麻生谷と小入谷に二つの木地師集落があり、この辺りで移動した木地師を総称して麻生木地師といい、昔から重きをなしました。

轆轤村(朽木麻生・木地山)
 近江の湖西へ流れる安曇川支流、麻生川の上流域にあった村で、西にある江若国境の木地山峠を越えて上根来村(福井県小浜市上根来)と麻生坂を越えて池河内村(福井県小浜市池河内)と結ばれていました。
 当村の石高は、江戸初期の寛永石高帳[1624〜1643]には41 石余りのほか1貫322文と記され、慶安高辻長[1648〜1651]には、田方23石余り、畑方18石余りほか小物成銭1貫322文とあります。
 集落名の通り、木地師達の近江の愛知郡蛭谷村(滋賀県神埼郡永源寺町)から移住して住みつき、膳・盆・銚子などを製作して各地へ売り捌いた所です。
 また、領主朽木氏の命を受け、盆および銚子を製作したので、管内至る所の橡(トチ)及び山手欅(ケヤキ)の材木伐採が許されたといいます。
 木地師の氏子狩は、天正14年(1586)ここで初めて行われ、戸主数21が記されてます。このため、氏子狩には、常に帳始めとして筆頭に巡回を受けました。しかし、最盛期には、80戸ほどあった村も天保飢饉[1834〜1837]により8戸まで減少したと言われています。
 明治7年(1874)東隣の横谷村とともに麻生村に合併し現在は木地山と呼んでいます

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